2015/10/26

アイドルマスターシンデレラガールズ2ndシーズン 感想

最終回からちょい空きましたが、私的感想まとめておきます。

1stシーズンで感じていた感じていた違和感のひとつ
(参照:至好回路雑記帳: アイドルマスターシンデレラガールズ(ファーストシーズン) 感想
は、この作品、ストーリーの中核があくまで島村卯月に置かれていて、24話で卯月がS(miel)ING!を歌うクライマックスに向けて、すべて計算されて構成されていた、というこっとがはっきりとわかり納得した。
いや納得したというより、おそれいったというか舌を巻いた。
しぶりんとの出会い、1stシーズンでの未央の失敗から成長といった諸々のエピソードが24話に、向けての伏線、仕込みだったのかということと、S(miel)ING!という卯月のもともとの持ち歌の歌詞に含まれた意味をきちっとすくい上げて構成し、強い意思と目的を持ってこの物語が語られていたということに。

しかし、その完成度の高い構成、かなり計算された物語であるがゆえに、まったく別の違和感、疑問がわいてきてしまった。

2ndシーズンに入ってから「シンデレラ」の童話になぞらえて、「お城」「舞踏会」「魔法」「灰かぶり」というキーワードを使って、アイドルという存在や卯月の置かれた状況について描かれる場面が度々ある。
普通の女の子である卯月がキラキラ輝くための「魔法」、女の子があこがれる「舞踏会」、舞踏会が開かれる大きくてきれいな「お城」
プロデューサーという魔法使いに「アイドルになる」という魔法をかけられ、女の子たちが舞踏会というステージに立ちキラキラ輝く。その舞踏会を用意する大きな事務所が「お城」といったところか。

しかしここで疑問がわく。
「シンデレラ」につきものの「意地悪な継母と姉」「王子様」はどこに行ってしまったのかと。
「意地悪な継母」が舞踏会への道を阻む障害、現実と解釈するなら、これは美城常務と解釈することもできる。
「継母」というキーワードを出さないのは、まあそこは察してくださいということで理解できるのでいいとして、では「王子様」は?となる

「王子様」は舞踏会に現れた見ず知らずの少女に心奪われ、「魔法」がとけ会場から消えたその少女をガラスの靴を手がかりに探し出し求婚する、というのが「シンデレラ」の一般的な物語だ。

では魔法がとけて灰かぶりに戻ってしまった卯月を救うのは?

シンデレラの童話になぞらえるならば、「王子様」役を担わなければならないのは、プロデューサーでもなく、周囲の仲間、アイドルたちでもなく、卯月の「ファン」でなければならないのではないのか?

プロデューサーや未央たち仲間の支えで自ら立ち直り、またステージに立つことができるようになる、という24話の流れは、もう一度「灰かぶり」が魔法を信じて魔法をかけられて舞踏会に戻っていく、ということであり、そこに「王子様」は不在である。
 これが、ファンの存在や声援がきっかけになって卯月が立ち直るという流れならば「ファン=王子様」という解釈が成り立つが、そうなってはいない。

24話で卯月がステージに立ち言葉をつまらせるシーン、仕事をしばらく休んでいて久しぶりにファンの前に姿を出して声をつまらせている、あのシーン。自分が卯月のファンならあそこで黙っていられるだろうか、あの状況で声援を発しないファンがいるだろうか。
卯月が歌いだしたとき、見守っていた仲間のアイドルたちが喜ぶリアクションが映されるが、本当にうれしいのはアイドルたちだけだっただろうか、あそこにいた卯月のファンたちのリアクションは?

あそこには「観客」はいても卯月の「ファン」はいない、下手をするとそう見えてしまいかねない。

ここのシーンにかぎらずシンデレラガールズという作品において、ファンの存在感は極力避けられ、物語の中核からは排除されている。
なぜそうなっているのかといえば、それはアイドルマスターというコンテンツの特徴に起因するものであるといえるだろう。
アイマスというシリーズ、コンテンツの特徴はプロデューサーとアイドルの関係を中心にすえられているところにある。
ゲームではプレイヤーはプロデューサー役であり、アニメにおいても視聴者の視点はプロデューサー視点にあることを重きに置かれている。
そのアイドルとプロデューサーの関係が物語の中核であることが求められ、そうであるが故にその外部は極力排除されている。


しかし普通の女の子がアイドルとしてキラキラ輝けるのは、魔法やお城や舞踏会のおかげだけなのだろうか。
シンデレラを見初めてくれる王子様=ファンの存在があって初めて「普通の女の子」でもキラキラ輝ける、輝き続けることができる。
アイドルという存在、あるいはアイドルというジャンルを考察するとき、それを支えるファンの存在というのは決して小さいものではない。

しかし、アイマスというコンテンツにおいてファン=プロデューサーであり、そうあらねばならない。
あくまでアイドルを支えるのはファンでありプレイヤーであり視聴者である「プロデューサー」でなければならない。
だからそれが分離して見えてしまうような描写はさけねばならない。
 アニメのシンデレラガールズはその不文律を忠実に守っている。
その不文律を守っているが故に突き詰めて構成した物語の中にどうしても「王子様」というピースをはめることができず、それをなかったこととして絵を完成させたが故のいびつさ、完全であるが故に感じてしまういびつさをのこしてしまったように思えてならない。

島村卯月というキャラは、個性的なキャラがひしめくシンデレラガールズの中で、「普通」である「個性がないのが個性」という特異的なポジションにある。
しかしそれはアニメ的にはヒロインの資質でもあり、没個性であるが故に物語の中心でいられる。
故に島村卯月がこの作品の主人公、中心として物語が構成されたのは必然であったと同時に、アイドルものというジャンルを作るうえで最適だったともいえる。
だが同時にアイマスというコンテンツのひとつの限界を垣間見せてしまったのかもしれない。

それでもアイドルマスターシンデレラガールズというアニメがすごい作品だと思うのは、すでにコンテンツとして巨大になりファン=プロデューサーさんたちの期待や思い入れを背負う「お城」になり、その「お城」のイメージ、権威を損なわないだけのものをつくり、アイドル=声優たちの個性を輝かせ今もまた魔法をかけ続けているからだ。

もしかしたら、シンデレラガールズは、アイマスの今を描ききった作品なのかもしれない。