2016/12/26

「この世界の片隅に」
公開から一か月以上、見てからだいぶ間があきましたが、そろそろいいかなーというところで感想です。

巧すぎる。
すごくいい映画。
でも遠すぎる。

超絶短くまとめると以上です。

見た直後は、いい映画を見たという以上の感想が出てこなかった。
だっていい映画としか言いようがないんだもの。

いい映画だと思えるのは、それがこの映画が巧すぎるからでもある。
技術的に優れているところがあるなら、ここのあそこがすごかったよかったという感想がでてくるが、この映画は全編が細部に至るまで極まっているうえで、その技術の高さを誇示するような作り方をしていない。
巧すぎるがゆえに巧いことを気にさせない。
映画という世界への没入を阻害させない、正しい技術の使い方がなされているので、素人がとやかく言うのはおこがましいのではないかと思えてしまう。

しかし戦争とその中で生きる人々の日常という題材は、自分にとって遠すぎる。
広島・呉という舞台もなじみがなく、登場人物の立ち位置も、自分からは遠い。
遠い場所、違う時代生活している人々、けれどそこで何が起きるかは知っている。
遠い世界知らない時代でありながら、映画を見ている間は近くに感じつつも、そこであったこと、起きたことに、そこから遠いところにいる自分が言えることなんてなにかあるのだろうか、と。
共感も反発も自分の中に見出すことはできなかった。
なにか感想を持つには遠すぎるのだ。

故に「いい映画」だったいう感想しか自分の中からはでてこなかった。


ここから余談。

自分にとっての不幸は、片渕監督を知りすぎた上で「この世界の片隅に」を見てしまったことなのではないかと思う。
もし、事前になにも知らずにこの映画を見ていれば、もっと別の感じ方をしたかもしれないし、
すごい映画をみた!傑作だ!みんな見よう!
と騒いだかもしれない。
が、それは「マイマイ新子」の時に通り過ぎた地点だったので。

片渕監督のことを意識するようになったのは今は亡き名作劇場枠で制作された「名犬ラッシー」でした(古参アピール)
「名犬ラッシー」の緻密で丁寧な少年少女の人物描写心情描写に、この人が名作劇場の監督続けてくれたら名作劇場は安泰だ!と当時そんなこと思っていましたが、すでに名作劇場の枠は命脈が尽きていてまもなく消滅してしまいました。

その後「アリーテ姫」を映画祭の上映で見る幸運に恵まれ、その時点で片渕監督が高畑勲監督の後継足りうる実力と可能性を持った存在ではないかと期待を寄せるようになった。
そして「マイマイ新子」に至るわけですが、ご存じの方は多いかもしれませんが、「マイマイ新子」は興行的には惨敗でした。

「マイマイ新子」はその傑作ぶりと大惨敗の不幸ぶりで、一部熱心なファンを獲得し地道な上映運動などを経てじわじわと拡散していき、さらにそこから今回の「この世界の片隅に」のクラウドファンディングでの制作実現へと見事な復活劇を演じて見せたわけです。

ちなみに自分はこのクラウドファンディングに出資していません。
期待する監督、制作者の出資して応援する。ということ自体は意義も価値もあることでそれ自体は素晴らしいことであり否定はしない。
ただ、個人的な考えとして「期待した監督に金出して作ってもらった映画が自分の期待を裏切った時や望むものと違った時が怖い」「出資してしまったら出来上がった映画の感想を素直に言えなくなるかもしれない」というところから二の足を踏んで出資をためらってしまった。
と、同時に片渕監督にはすでにマイマイ新子で獲得した熱心で活動的なファンが多数いるので、もう安泰なんじゃないのか、と。
ある意味この映画は「マイマイ新子」の復讐戦であり、その戦闘要員として参加していれば逆に祭りとして、もっと楽しめたかもしれないのだけれどその道は選ばなかったので、もう見る前から気持ちは複雑。

そういうなんやかんやを含めた過程を経て「この世界の片隅に」は出資したとかしないとか関係なく「素直な感想」なんてあるわけがない状態で、見に行ったわけです。

そうして見て出てきた感想は、実にフラットに
「いい映画だった」
というシンプルなものでした。


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